さて、国民投票法案の内容は後で説明するのは後回しにしまして、前回で紹介した3つの疑問について説明していきます。


 1.なんで憲法を変える必要がある? 


 2.そもそも、憲法ってどうしているの? 


 3.日本の憲法って、誰が作ったの? 


 この3つでしたね。前後逆になりますが、疑問2からやっていきます。なぜなら、憲法の必要性がわからなければ、憲法を変えるという論理にはたどり着かない気がするからです。ここからは、少し憲法の歴史を紐解いて行きましょう。


 憲法が出来る前


 過去のブログでもお話したとおり、憲法ができる前は「道徳」や「法律」といったもので、人々が安心して生活できる暮らしを支えてきました。しかし、道徳を守るものは少なく、犯罪を起こすものが後を経ちません。そこで、法律というある一定の基準を設けて、その基準を違反したものを罰するようになります。


 現代の私たちの生活でも変わりなく、法律というのが社会の規範を保っていることは誰もが知っていることです。しかし、歴史において法律というのは度々問題が起きていました。一つ例をあげてみましょう。


 法律を制定するのは誰でしょうか?


 現代の日本で言えば国会ですよね。しかし、国会のようなシステムが出来上がったのはここ何百年の前の話なのです。過去では共和制もありましたが、法律を作ることができたのは、その国の代表者=王様のものでした。


 もちろん、全ての法律を王様が作るということではありません。王様の仕事は、大臣や一部の特権階級(貴族)などが持ってきた法律案の内容を確かめて、承認するということでした。つまり、法律によっては王様が気に入らなければ、退けることができたのです。また、王の妃(きさき)が新しい服が欲しいといえば、王様はそのためのお金を集める手段として、今までありもしなかった法律を制定することが可能でした。ようは王様が好き勝手に法律を作れたのです。


 これでは国民はたまったものではありません。一生懸命に働こうが、わけのわからない法律ができ、せっかく蓄えた財や富は王様にもって行かれてしまう。しかし、そんなことを文句をいうなら、即効捕まり、牢屋送りにされてしまう。昔の裁判制度は王様が裁くのですから、どれだけ訴えようが公平な裁判は期待できませんでした。こんな歴史が何千年も繰りかえされてきました。しかし、ある時、塵に積もった国民の不満が爆発しました。


 マグナ=カルタ(大憲章)1215年イギリス


 歴史の授業で耳にしたことがあると思います。なぜ、これが歴史の授業で取り上げられているかというと、この時、起こった国民の不満が中世の政治や法律の在り方を変えていくことになるからです。


 、Magna Carta: ラテン語、the Great Charter: 英語)はイングランドの憲章で、ジョン王の権限を限定する法である。ラニーミードにおいて1215年6月15日に制定された。63か条から成る。すべての条文はその後廃止されたが、前文は廃止されずに現行法として残っており、成文憲法を持たないイギリスにおいて、事実上、憲法の一部である。

 

 特に重要な項目は、教会は国王から自由であると述べた第1条、王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金を集めることができないと定めた第12条、ロンドンほかの自由市は、交易の自由を持ち、関税を自ら決められるとした第13条、国王が議会を召集しなければならない場合を定めた第14条、自由なイングランドの民は、国法か裁判によらなければ、自由や生命、財産をおかされないとした第38条などである(WIKIより抜粋)


 ジョン王といえば、ウイリアム・テル物語(ロビンフッド)でも出てくる有名な王様ですが、人気のほどはあまりにもありません。なぜ、これほど人気がない原因は様々ですが、大陸領土喪失、教皇と争って破門され、泣く泣く謝罪して、領土を返されたなどの数々の失敗談が原因にあります。


 そんなジョン王に国民の不満が爆発して、諸侯と手を結んだ国民の団結によって、マグナ=カルタを認めさせられます。実際は、ジョン王のみのマグナ=カルタで、次の王様の時には廃止されましたが、清教徒革命や、アメリカ合衆国建国にも、参考にされたそうです。


 ジョン王の暴虐振り、駄目王振りは群を抜いており,イギリスでもっとも暗愚の王様だったといわれる地位はこの先、覆そうな人物は二度と現れないだろうと噂されるほどですが、歴史的な重要性の側面から見れば、彼がいたからこそ、マグナ=カルタが産まれたとも言えます。まあ、評価は人それぞれですし、歴史に“もし”を持ってきても、きりがないのでこのあたりでやめておきます。


 長くなったので続きはまた・・・。