前回の話は、大航海時代にかけて、商人の富の蓄積が増加、都市の発展によって、次第に政治に参加するようになるという流れを追ってみました。憲法とは全然関係ないような話かと思ったかもしれませんが、人々の意識改革においては、大変関係ある話になります。話はかわりますが、現代でも、人々が政治に参加するというのは、変えて欲しいと思う事があるからではないでしょうか。前にテレビで投票率の疑問の回答をこんなふうに答えるひとがいました。


 日本人は選挙の投票率が少ない。他の国々の人たちは、もっと積極的に参加して投票率が高いのに、これはどうしてなのか。


 それは日本人がそれほど不満をもっていないということ。いくら、今の内閣が駄目とかいっても、日本人そのものに選挙に無関心というわけではなく、多少の不満があっても、概ねは満足しているということでもある。


 この答えを聞いて、私は関心しました。投票率の少なさは、選挙の無関心さだけではなく、本気で国に変えて欲しいようなことがないということなのか。今、年金問題で騒いでおりますが、次の参議院選挙の投票率は果たしてどのくらいになるでしょうね。私は60%ぐらいだと思いますが。


 と、少し雑談しましたが憲法がどうしているの?の続きをやっていきます。議会といえばイギリスです。なので、ここからはイギリスの話です。


 大航海時代において、富の蓄積で大商人となった商人たちは、都市を発展させ、様々な規則や法律をつくりました。しかし、それはあくまでも、都市に対する法律やら規則です。国の法律を作るのは、王や一部特権階級の人たちでした。


 ですが、それも議会の登場によって変化していきます。しかし、議会が出来た当初は、王は完全に議会の存在など無視して、好き放題に振舞っていました。人々は議会を通じて、何度も抗議しますが、王は聞き入れず、人々の不満は高まっていきます。せっかく、ジョン王によって、認めれたマグナ=カルタも、次の王では廃止され、その後、専制君主制がずっと続きますが、まだイギリス出身の王なら、多少の法慣習を守っていました。


 しかし、外国の王が迎えられてからは、イギリスの法慣習などを、知るわけもなく、王は煩く抗議する議会を解散させます。また、ある議員を強制的に逮捕し牢獄送りにし、逆らう者は容赦しないという中世時代の強硬姿勢を貫こうとしますが、議会を無視した行動はやがて一つの事件を引き起こします。


 権利の請願(1628年イギリス)


 1628年3月議会が再開され、その中には強制公債を拒否して投獄された27人の議員を含んでいた。議員達はトマス・ウエントワース・ジョン・ピム・ジョン・ハムデンらを指導者として国王の責任を追及すると同時に臣民の自由と権利の再確認を求める法案を提出しようとした。だが、思想家・法学者として著名であった庶民院(下院)議長エドワード・コークは、法案として提出すると、却って国王の態度が硬化すると考えてより穏便な「請願」の形式を取る事となった。(WIKIより)


 これが権利の請願です。事件の細かい内容は歴史の勉強ではありませんので、軽く流し読み程度でいいかと。ですが、権利の請願の内容は、現代のイギリスにおいて、不文憲法の位置づけとして、大変重要なので、憲法を考えるうえで参考になりますので、詳しくみていきます。

  1. 何人も議会の同意無しに贈与・公債・献上金・租税などの金銭的負担を強要されず、またこれを拒否した事を理由としていかなる刑罰や苦痛をうけることが無い事。
  2. 自由人は理由を示されずに逮捕・投獄をされない事。
  3. 住民はその意思に反して、軍人や兵士を彼らの住居に宿泊させる事を強制されない事。
  4. 平時における軍法による一般人の裁判は撤回され、判決は無効とされる事。

 重要なのは、これは再確認といっていることです。つまり、旧来のイギリス王からこの請願の内容は約束されていたということです。権利や自由は私有財産同様イギリス国民に相続されているものであることを確認する。


 ようするに、イギリスではこれが『絶対的な掟』だということの確認です。絶対的な掟といえば、憲法に繋がりますよね。なので、イギリスではこの権利の請願を不文憲法の一部として、扱われているわけです。


 この請願によって、コモン=ロー(法の支配)が確立されます。前に出てきたブラクトン判事の言葉『王といえども神と法の下にある』という言葉の概念が明確化されたという意味において大変重要です。


 さて、チャールズ一世はこの請願を拒絶しようとしますが、財政悪化がこれ以上悪くなるのを避けるために、一旦は承認して法として認めます。しかし、腹心が暗殺された後、再びこの請願を事実上無効として、議会を解散させます。


 しかし、一旦認めたものを廃止したという行為は人々の不満をさらに高めました。そして、その不満が、いよいよ革命へと繋がっていきます。それが13年後の清教徒革命でついに爆発する結果となるのです。